旅をする裸の眼
ハイ、ずっと楽しみにしていた小説が、ようやく書店に並んでいたので、一気読み。
カメラの視線で始まる冒頭は、村上春樹の「アフターダーク」を彷彿とさせるが、多和田葉子の新作「旅をする裸の眼」は、決して夜明けのハナシではなく、小説が終わっても、夜が明けることはない。夢は覚めずに、不安と疲労を残したまま、ポツンと小説の中に置いてけぼりにされる。こういう小説、すなわち多和田葉子の小説を、ずっとずっと読んでいたいと思うのは、小説の中に、私自身が置いてけぼりにされるから。きっと、そうに違いない。例えば、恩田陸の「夜のピクニック」のように、多くの人に無条件にすすめたくなる小説ではないが、私はこういう小説も大好きなのだ。たまらない。
「旅をする裸の眼」は、2人称(あなた)を思い続ける1人称(わたし)のハナシ。あなたとわたし。あちらとこちら。わたしは、こちらからあちらを思い続けている。わたしの気持ちはこちらには不在。多くのこちらとあちらが出てくるが、わたしの気持ちは、すべてあちらにある。例えば、社会主義と資本主義、冷戦と冷戦後、国境の内側と国境の外側、自分が使っている言語とそれ以外の言語、現実と妄想、現実と映画の中の世界、わたしとあなた。主人公のわたしは、社会主義の国、ベトナムから資本主義の国、フランスにたどりつき、フランス語が分からないわたしが、あなたの出ているフランス語の映画を見る。…という具合。小説の中に出てくるあなたは、女優のカトリーヌ・ドヌーヴのことで、各章のタイトルは、カトリーヌ・ドヌーヴが出ている映画のタイトルになっている。で、あなたが出ている映画がわたしの現実に絡んでくる。
わたしは、サイゴンから冷戦下の東ベルリンへやってきて、ふとしたことから半ば拉致状態で、東ベルリンからボーフムへ、そして、そこから逃げようと、ソ連へ向かうつもりが、逆方向のパリへ向かう電車に乗ってしまう。主人公のわたしは、決して旅をしているわけではなく、拉致、逃亡者、不法滞在者として、その土地土地で、あちらを思いながら生きる。
全13章。そういえば、「容疑者の夜行列車」も全13章の小説だったけど、多和田葉子にとって「13」という数字には何か特別な意味があるのだろうか。「旅をする裸の眼」は、1章が1年で、1988年に始まった物語は、2000年で終わるのだが、宙ぶらりんのまま。
「である調」の文章の中に「ですます調」の文章が突然出てくるが、途中から、この小説の中で「である」と「ですます」はどのように使い分けられているのかを意識しながら読んでみた。必ずしもすべてではないのだが、文中に「あなた」が出てくると、ですます調になる。それは、わたしのあなたへの思いの表れ。やがて、わたしなのか、あなたなのか、分からなくなってくる。
最終章はこう始まる。
セルマはアメリカに亡命してそこで死刑の宣告を受ける前に、ベルリンで三年間、暮らしたことがあった。
私はこの出だしを読んで、たまらなくうれしくなってしまった。セルマはbjork(ビョーク)。この章のタイトルは「Dancer in the dark」。ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」である。何を隠そう、私はこの監督が好きで、bjorkも大好き。確かに、この映画にもカトリーヌ・ドヌーヴは出ていた。キャシーという役柄で。
この章では、わたしは盲目。セルマがわたしに話しかける。キャシーは、わたしに指の動きで映画を翻訳してくれる。
………この先はこれからこの小説を読む人のために書かない方がいいのだろう。とにかく、この小説のラストのような突き放され方が、私はたまらなく好きなのだ。
どうでも良いことだが、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、2000年12月23日に日本で公開された映画。で、もうすぐ、2004年12月23日。この小説から、4年後のわたしは、いったいどうしているのだろう?
| 固定リンク











コメント
はじめまして。旅をする裸の眼で検索したら、このページに飛んで、内容を読んでうれしくなったのでコメントさせていただきます。
私は多和田葉子の書く小説がものすごく好きで、随分前に買った、旅をする裸の眼を読み直していて、最終章のタイトルが、Dancer in the darkだったので、もしかして、と思って映画を初めて見ました。どちらかというと、ビョークが苦手だったのでなんとなく見ていなかったのですが、映画を見た後だと、最終章が生々しく映像化されて、Dancer in the darkと、この小説の接点を知りたくなり、検索していました。
小説の章のタイトルは、カトリーヌ・ドヌーブの出演した映画のタイトルだったのですね!からくりみたいで面白いと思いました。
投稿: 芽久美 | 2005.05.18 01:27 午前