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2004.12.02

ユリシーズの瞳

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ユリシーズの瞳@ユーロスペース(11月25日)

監督:テオ・アンゲロプロス
出演:ハーヴェイ・カイテル/エルランド・ヨセフソン/マヤ・モルゲンステルン

映画の終盤、霧の中での銃殺シーンで私は言葉を失う。辺り一面は霧。数メートル先すら全く見えない状況で、数発の銃声が鳴り響く。死体を川に投げ込む音。映画監督A(ハーヴェイ・カイテル)が近づくと、そこには、マナキス兄弟の幻の未現像フィルムを保管していたレヴォ・レヴィ(エルランド・ヨセフソン)とその家族の死体が転がっている。戦時下のサラエボでは、霧の日だけは昔(戦争が始まる前の状態)に戻る。敵味方関係なく、音楽が流れ、笑い声すら飛び交う。戦時下での緊張がゆるむ時。ある種のお祭り状態。そんな中でのシーン。束の間の幸せを見せておきながら、アンゲロプロスはこの幸せを決して永遠のものとしては描かない。アンゲロプロスの映画には、常に暗くて悲しい歴史が背後にあり、そこから逃げることができない絶望のようなものがつきまとっている。

「ユリシーズの瞳」の主人公は、30年ぶりにギリシアに戻ってきた映画監督A。20世紀のはじめに撮られたマナキス兄弟の映画の中に、未現像フィルムがあることを知り、それを探す旅に出る。その過程で、自分が幼かった頃に迷いこんだり、マナキス兄弟と自分を重ね合わせたりして、現在、過去、現実、幻想が交錯する。例えば、ブルガリアの国境で、映画監督Aはマナキス兄弟の幻想に迷いこみ、そこで死刑を宣告される。その幻想から現実に戻ったときの、何ともいえない浮遊感。アンゲロプロスでないと撮れないシーンなんだろうなぁ、と思う。「ユリシーズの瞳」は、現在、過去、現実、幻想に加え、マナキス兄弟が20世紀のはじめに撮った映像が絡んでくる。そのすべてに、背後霊のようにつきまとっているのが、かつて「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の悲しい歴史。映画監督Aはバルカン半島を巡り、幾つもの国境を越えて、戦時下のサラエボにたどりつく。

全編がどんよりした天気の中で撮られている。登場人物に笑顔がほとんどなく、まるで亡霊のように感じる。きっと、アンゲロプロスは、1カット1カットを「悲しみ」や「絶望」で埋め尽くしたいのだろう。どこを取っても美しい構図のキレイな「絵」が続くのだが、伝わってくるのは、ひたすら「悲しみ」や「絶望」だ。

ラストは、現像したての幻のフィルムを映画監督Aが見ているシーン。複雑な感情が入り交じったハーヴェイ・カイテルの表情が印象的だが、映写機は幻のフィルムをカラカラ回し続ける。そして、そのままエンドロールに入り、映写機の音だけが残る。映画の中で聞こえる映写機の音――。私は「明日に向って撃て」の冒頭や「ニューシネマ・パラダイス」のラストを思い出し、現在と過去、現実と幻想が交錯する。

アンゲロプロスの魅力は、とてつもなく長い長い1カットの中に、現在、過去、現実、幻想を織り交ぜるところ。例えば、「ユリシーズの瞳」の中にも、たった1カットで、映画監督Aの幼かった頃の5年間が、幻想として描かれるシーンがある。こういうシーンを見ていると、たまらなくうれしくなる。私は、こういう映画を見たかったのだ。

しかし、だ。先日も書いたけれど、「ユリシーズの瞳」の前に見た「狩人」は、もっともっとスゴイのだ。いや、「ユリシーズの瞳」を見て、改めて「狩人」のすごさを感じたと言った方が正確かもしれない。私が映画で見たかったものが、すべて詰まっている。「狩人」は、その前に撮られた「旅芸人の記録」の影に隠れている感じがするけれど、いやは信じられないくらいの大傑作なのだ。

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